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こんにちは、東大医学部3年の赤坂浩二です。
3回目の更新ですね。
立て続けになっています。^^;
皆さんの要望の高いコンテンツってなんでしょうか?
コメント等いただければ反映していきますよ!
僕らの合格体験記なんかですかね??
さてそれでは本日は学校の活用目的の検討について書いてみます。
「内職」を行って学校の授業を聞かない、ということを学習の中心に据えていた僕ですが、それでは学校に行く意味とは何なのでしょうか。
実はこの問題は、学校に行くことの目的として何を想定しているか、ということが全てです。
要するに、目的も違えば「学校に行く意味」も違ってくるということです。
皆さんはどのような目的意識を持って学校へ通っているでしょうか?
今回考えてみたいのは、受験戦略において学校での活動をどう位置づけ、学校生活を自分の生活にどう活かしていくか、ということです。
(ちなみに、ここでいう学校とは、義務教育ではない高校のことを指すと考えてOKです。ただし、中学生の方は自分の状況にあてはめて都度、解釈していただければと思います。)
学校に行く目的は人によりますが、大きく分けて「勉強系」「社会適応系」「面子系」の3つのに分けられます。
〜勉強系の目的〜
1.学校の授業で勉強をするため
2.プロである(?)教師に学習指導をしてもらうため
3.進路指導をしてもらうため
〜社会適応系の目的〜
4.部活動など一人で出来ない活動をするため
5.クラスメイトや教師との人間関係構築のため
6.社会生活を営む上でのルールを知るため
〜面子系の目的〜
7.高校に通っていないと世間的に恥ずかしいから
8.親に高校へ行けと強要されるため
9.高卒資格を取っておきたいから
学校に通う目的は、主には以上のように分類できるのではないでしょうか。
ポイントは、「勉強すること」だけが目的では無いということです。
まず、「勉強系の目的」について考えて見ましょう。
率直に言って、受験だけのことを考えれば、上記の1〜3については、特に学校でやる必然性はありません。
123は全て塾で代用可能であるし、そのほうが効率的であることが多い。
あるいは目的意識の高い人なら、自分で志望校を決め、独学で勉強することができるので、やはり???を自分で網羅できるので学校に行く必要性はありません。
こういうケースでは、学校の定期試験がネックになって、自分のために勉強ができない、と嘆く生徒すらいます。
「受験勉強」という面から見ると、高校に行く必要性というのは無いのです。
それどころか、塾に行く必要性にすら疑問符がつきます。
当たり前なのですが、学校の教師は別に生徒一人ひとりについて親身にやっているわけではありません。
実はそれは塾講師でも同じです。
どの生徒も、結局は「数多くいる生徒のうちの一人」でしかないのです。
つまり、「自分のために」用意された授業があって、「自分のために」尽くしてくれる教師がいて、それに乗っかっていれば受かる、といった“ラクな”話は無いのだということです。
「じゃあどうすればいいんだ」と言う生徒もいます。
結論としては、自分の勉強は、自分でマネジメントするより他は無いということです。
「自己責任」と言い換えてもいいと思います。
行きたい大学に落ちたときに他人のせいにしても何も解決しません。
だから自分なりの目標設定をして、それに向かって努力を積み重ねるようなプロセスを経ることが大事だと思うのです。
そして、目標設定のやり方や学習法の工夫については、昔に比べるとはるかに情報が充実しています。
ウェブや書籍等の形で情報が溢れているわけですから、自分で情報を集めて「このやり方でやってみよう」と取り入れるのが手っ取り早い。
取り入れた方法を自分なりにカスタマイズして実行できれば、それはもう「アナタのテク」だということです。
ちなみに、高校に行かないで毎日10時間自分で参考書を使って勉強し難関大学に入ろうとする生徒もいます。
実際に驚異的な効率で学習を進めています。
さて、最初の話が長くなってしまいましたが、次に「社会適応系の目的」について考えます。
いくら学校の勉強がつまらなくても、「部活が楽しい」「友達と会えるのが嬉しい」という場合は、ほとんどの場合、学校へ行くでしょう?
これらは勉強以外のところで学校に価値があることの代表例です。
学校に行くことの目的として4〜6の「社会適応系の目的」を持っている人にとっては、学校に行く価値というのは十分にあると思います。
仕事を始めれば人間関係の構築が大事になりますし、高校時代に作った友達と一生の付き合いができることも多いわけです。
僕も、同好会を作って活動したり、文化祭や運動会で盛り上がったりといったことがすごく楽しかった。
友人もできたし、人間関係や自分の見る世界が広がった感じがします。
そこで得られた“経験”も、一つの価値となるのです。
ただ、わざと自分の言ったことに反論するならば、そうした「社会適応系の目的」に対して、学校だけが最適な手段となるわけではありません。
部活動のようなことは、近くのスポーツクラブに行ってもできるし、友達作りなど、学校に範囲を限定せずにできてしまう時代です。
従って、今述べたようなことで学校に価値を見出せない人も、いるのではないでしょうか。
最後に7〜9「面子系の目的」について述べます。
7〜9の各目的に対して学校の価値が認められないという場合でも、多くの生徒は高校に通い続けます。
「高校ぐらいちゃんと卒業しろよ」という常識が浸透しているために、どんなに高校が嫌でも辞めづらいという事情があります。
これが結構大きいのでは、と思います。
ただ、僕はこのことが悪いことだとは思いません。
確かに、常識に従っていると、しばしばそれが合理的でなく、また無意味に思えることがあります。
高校に通って何の意味があるのか、ということを考えている人は多いと思います。
しかし、常識に従うことで得られることがあります。
それは「安心」です。
常識に従うことで得られるのは安心です。
常識に何となく従っていれば、とりあえず社会からつまはじきにされることは無いし、やっていけるという面はあるわけです。
そもそも「常識」というのはおそらく社会の共通性というか、前提のようなものであるわけですから。
ただ、逆転合格を狙って勉強しているような“後が無い”ケースでは、常識に従って何となく勉強するのは致命的なハンディキャップになるということを認識する必要があります。
極めて平易にいえば、人より勉強ができるようになりたいのなら、人と同じことをしていてばダメだ、ということになります。
奇を衒えといっているわけではありません。
常識を疑い、その意義を問い直した上で、自分なりの身の振り方を考え、実行することに意味があるのです。
そう思えば、場合によっては高校に行かずに大検を受ける、または通信制の高校へ行って卒業資格だけは取る、といった選択肢も、一つの戦略として有効であると結論できるでしょう。
安易に「学校の授業を聞いていいればナントカなる」と思う姿勢、「塾に通いさえすれば安心だ」と思ってしまう姿勢は、結果的に受験勉強をより辛くさせると思います。
授業を受けるのでも、「この授業から学べることは全て学ぶぞ!」と意気込んで工夫を凝らして受けるのであれば効果はあるでしょうし、一定の効率は得られます。
その期待に応えられる授業がなされていないのであれば、割り切って自分で勉強する、すなわち内職することも有効な方法なのです。
それは学校の価値を踏みにじっているわけではありません。
むしろ、その学校のいいところを取り入れつつ、不十分なところを生徒自らが補完しているという意味で、実は“学校の価値”(=比較優位性)を引き出していることになるのです。
もし学校に全般的に価値が見出せないのなら、辞めてしまうのも選択の一つです。
その際には、学校を辞めることによる「疎外感」「孤独感」に耐えられるかどうか、常識から外れた道を選ぶことへの「不安」を引き受けられるかどうかを、きちんと胸に問いかけてから決断すべきであると思います。