こんにちは。赤坂です。
今回からは毎週木曜日担当ということで、定期的な更新をしていきたいと思います。



今日のテーマは「自分にあった○○選び」のジレンマです。






「自分に合った塾、自分に合った参考書、自分に合った家庭教師…」
勉強をする上で、多くの受験生は「自分に合った○○」を選ぶことにそれなりの労力を費やしています。
僕が家庭教師先で教えていた先にも「これは自分には合う、合わない」といったことを考えている生徒さんは多くいらっしゃいましたし、
また保護者の方は教育というと必ず第一に「ウチの子に合った塾、先生」という言葉が真っ先に出てくるものです。


もちろんですが、どうせ選ぶなら、自分にフィットしたものを選ぶのは当然のことです。
性格の合わない講師より、仲良くできる講師の方が、全体的に観れば良いことの方が多いものです。


ところが、こうした「自分に合った○○」という発想には、極めて大きな落とし穴があります。




それは、「そもそも○○を使うことが本当に最適なのか?」という突っ込みがありえるということです。




「自分に合った塾を探している」という人がいたとします。
ところが、そもそも「塾に行く」ことが良いことなのかどうか。
塾というのは、勉強を進める上での1つの選択肢ではあっても、塾ありきで勉強そのものを考える発想は危険でしょう。
塾の授業を聞いていると「分かったような気になる」ものですが、授業内容を定着させようとすれば相応の労力が必要となるし、通学時間もかかります。
また、どんなに「自分に合った塾」であっても、自分のために全てが最適化されているわけでもないのも事実です。


これは教材然り、先生然り、あるいは学校もまた然りです。
「自分に合った○○」という発想をする以前に、その「○○」自体の特性や限界について知っておくべきではないか、というのが僕の主張です。




集団指導の塾は、カリキュラム自体が個人に最適だとは限りませんが、クラスメイトとの競争や協力を通じてモチベーションを高めるには極めて効果的です。
また、勉強のペースを維持するという意味では、ある程度の強制力も働くので効果的です。
ただ、個人最適でないぶん、カンタンすぎたり、難しすぎたり、という問題がやはりしばしば起こります。
さらに、東大クラスのような一部の特別クラスを除けば、志望校にフィットした授業ばかりでもないのが現実です。
このような特性を見極めた上で選ぶのが筋であって、勉強しようと思ったときに「さてどの塾に行くか」と考えてしまうのは、手っ取り早いのは事実ですが、経済的にも高くつきます。
特に最近注目すべき事実として、塾通いなどの教育費が家計占める割合が増えてきているということもあります。
塾通いは月3〜5万、時には10万円ほどかかるものですから、むやみやたらと塾通いを所与のものとして考えることは、一般的にオススメできるわけでも無いはずです。




個別指導などは1対1で丁寧に観てもらえるのは特筆すべき長所ですが、それが災いして「先生に聞けば何とかなる」といった安易な姿勢に陥り、「自分ひとりでは何もできない生徒」を生み出すことにもなります。
試験では自分ひとりで戦わなくてはならないのに、先生に頼りすぎる、というようになってしまえば、厳しい受験戦争を勝ち抜くことはもちろんのこと、例えば大学生になってから、社会人になってから、というときに困る可能性が非常に高いのではないでしょうか。
しかも月謝は通常の塾よりももっと高額であることがほとんどです。
目的がハッキリしていたり、講師の質が高い場合には非常に効果的な指導形態ではありますが、使いどころを間違えると、子供の自立を阻害しながらお金だけ浪費する、という最悪の状態にもなりかねないことは事実です。
家庭教師なども個別指導塾と同じですが、さらに時給が高いこともあり、また講師の質もまばらで実質的にはオススメできない業態です。




参考書選びなども、自分に合ったものを選ぶことばかりが優先して、「そもそも合格のために必要な勉強は何か?」という点がいつの間にかどこかへ飛んでしまう例が多く目撃されます。
「これは自分に合っている」という以前に、「これは合格のために必要かつ効果効率的な内容だ」という判断がなければいけないのですが、それをすっ飛ばす怖さはぬぐえないものです。
実際、私自身、装丁が気に入った参考書を買っては使わずに放置、と言う経験を何度かしたことがあります。






そうしたことを総合的に考えた上であえて言うならば、僕自身は、「自分に合った○○」なる考え方には大いに反対です。
なぜなら、「自分に合った」という言葉はどうしても曖昧なものだからです。


つまり、受験や定期テストなど、何らかの目的があって行う勉強については、気に入る・気に入らないという次元ではなく、愚直に「その学習手段がどれだけ結果に良い影響を与えるか」という観点で判断すべきなのです。


「自分に合っている」というとき、単なる「好き嫌い」の判断になっていませんか?
本当は、「目的を達成するためにどれだけ効果があるか」ということで判断しなければならない。
それには「自分にあった○○」というだけでなく、そもそも「○○を使うこと自体が適切なのだろうか」とより高い次元で判断を下す必要も出てくるでしょう。






僕自身は、参考書・問題集を買い揃えたり、塾に通ったり、といったことを批判するつもりはないのです。
ただ、より本質的に効果のあることを考えて実践する方が、結果に対して良い影響を与えるだろうという、いわば当たり前のことをあえて主張したいのです。








これは医学部で医学を修めるものとしては常に言われていることでもあります。
ある病気を目の前にしたときに、外科医であれば「この患者さんに合った手術法は何だろう?」ということを考えることができます。
しかし、手術が常に最適な治療法とは限りませんから、外科の医師は、投薬や放射線治療による治療、あるいは治療行為を最小限にとどめて緩和ケアを行う、という発想をして、別の科の医師を連携して医療にあたっているわけです。
患者の立場からすると、病気を目にしたときに「まず手術ありき」で考えてしまう医師より、様々な手段を広く総括した上で最適な手段を選択できる医師に診てもらいたいと思いますよね。
今回のテーマは、それと全く同じことを、勉強を軸に語ってみた、というわけです。




意思決定における発想のパースペクティブをいかに広く持つか。
これは世の中の多くの問題発見・解決の結果を左右する重要なポイントなのではないでしょうか。